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由緒・歴史

湊三嶋大明神社について

往古より住民並びに航海を業とする者など、伊予の熟田津、成田津、秋田津の総守護神、三津大明神として尊崇し、湊大明神とも称え、
後に湊三嶋大明神とされた。南北朝時代には伊予の豪族・河野氏の守護神としてもあがめられ、また近隣の人々も海の安全と繁栄を願ってきた。

主祭神
大山積神(おほやまつみのかみ) 大綿津見神(おほわだつみのかみ)
速秋津姫神(はやあきつひめのかみ) 瀬織津比売神(せおりつひめのかみ)
伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ) 雷神(いかづちのかみ)
高麗神(たかおかみのかみ) 饒速日命(にぎはやひのみこと)
伊予皇子(いよのみこ) 上筒男神(うはつつのをのかみ)
中筒男神(なかつつのをのかみ) 底筒男神(そこつつのをのかみ)
武雷神(たけいかづちのかみ) 経津主神(ふつぬしのかみ)
越智宿弥河野通春公霊(おちのすくねこほのみちはるこうのみたま)
御神徳

<運気上昇の神社>
人開運・海上安全・家内安全・子孫繁栄・勝運
人生運上昇 学運上昇 勝運上昇 諸諸祓い

由緒

往古、湊山に鎮座し、御津大明神とも湊大明神とも称しました。
聖武天皇神亀5年(728) 8月勅詔によって国司小千宿弥玉興、玉純父子が、伊予九十四郷に一社宛、大三島大明神を勧請のとき、此の湊山に勧請し、本郷一宮と称えました。
文治2年(1186) 河野四郎通信が湊山に築城のとき、当社を山の南麓に奉遷しました。
文永、弘安年中蒙古襲来のとき河野通有、同通純は水田三反を献じて武運長久を祈り、元弘3年(1333) 9月河野伊予守通能は神殿を修理し、北條太夫越智親孝、同新太夫越智親経は此の地に別亭を構え、その祖、饒速日命、伊予の皇子等の神霊を祭祀しました。
河野通春、同通篤は湊山に居城して尊崇篤く、文明年の足利勢と合戦、死後の霊を祀りました。

慶長年間(1596~1615)加藤左馬守嘉明は社殿を修理、松平隠岐守が藩主となってからは御用船出入り安全海路守護神として尊崇し、社殿を修理、例祭ごとには代参がありました。
また、往古より住民ならびに航海を業とする者等、大綿津見命、速秋津神等を奉斎し伊予の 熟田津、成田津、秋田津の総守護神、三津大明神と称して尊崇し、湊大明神とも称え、後に湊三嶋大明神社と称しました。